ボッティチェリ

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ボッティチェリ
(Botticelli)


サンドロ・ボッティチェリ
(Sandro Botticelli)
1444/1445年 - 1510年5月17日

イタリア


サンドロ・ボッティチェリは、15世紀後半 初期ルネサンスで最も業績を残した
フィレンツェ派を代表する画家
です。


本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ (Alessandro di Mariano Filipepi) といい、
ボッティチェッリは兄が太っていたことからついた「小さな樽」という意味のあだ名です。
ボッティチェルリ、ボッティチェリ、ボティチェリなどと表記されることもあります。








ボッティチェリ
(Botticelli)
 

ヴィーナスの誕生

プリマベーラ

※絵をクリックして頂くと絵の詳しい解説になります。






生涯 

皮なめし職人の子供として1445年に生を受け、生涯独身をとおしました。
画僧フィリッポ・リッピの元で修行をおこない、
当時の花形工房であったヴェロッキオの工房とも関係を持っていました。


1470年に制作された商業裁判所のための寓意画『剛殺』が初作品。
以降約20年間にわたり時の権力者メディチ家の支配下にあったフィレンツェで
第一線の画家として活躍します。



1481年ローマに呼ばれシスティーナ礼拝堂の壁画制作に携わります。

同年代にはラ・プリマベーラやビーナスの誕生など異教的な神話を題材にした傑作を残します。




メディチ家当主ロレンツォ・デ・メディチの死後、
ドメニコ会の修道士サヴォナローラがフィレンツェの腐敗を批判し、市政への影響力を強めると、
ボッティチェッリも心酔し、神秘主義的な宗教画に転じていきました。


しかし、この時期以降の作品は生彩を欠くとして人気が急落します。
1501年頃には制作を止めるに至りました。



享年65歳。












〜くろいぬのティータイム
『メディチ家について』


メディチ家(Medici)は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて
銀行家、政治家として台頭しました。


フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、
後にトスカーナ大公国の君主となった一族です。


その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの
多数の芸術家をパトロンとして支援し、
ルネサンスの文化を育てるうえで大きな役割を果たしたことでも知られています。



メディチ家の起源

「メディチ」は「薬」という意味であり(英語のmedicine:薬の語源はメディチ家;Mediciである)、
先祖は薬種問屋か医師であったのではないかとされており、
13世紀のフィレンツェ政府の評議会議員の記録に既にメディチの名前が残されていますが、
それ以前の経歴や一族の出自に付いてはあまり明らかにされていません。

銀行業を始める前は、
薬品の一種であるミョウバンを商って栄えていました。
メディチ家紋章の赤い丸は薬を模した物とする説もあります。


14世紀には銀行家として台頭し、
フィレンツェ共和国政府にもメンバーを送りこむまでになりました。


1378年の下層労働者と新興商人が結んだ反乱チョンピの乱では、
メディチ一族のサルヴェストロが活躍するが、反対派のアルビッツィ家らに巻き返されて失敗。
サルヴェストロの名は、
永くフィレンツェ市民の記憶に残ったといわれていますが、一族の勢力は衰えました。


そうした中で後のメディチ一族の基礎を作ったのは
ヴィエーリ・ディ・カンビオ(1323-1395)です。
ヴィエーリはローマ教皇庁にもつながりを持って、銀行業で成功しました。






銀行家としての成功

メディチ家は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチの代に
銀行業で大きな成功を収めました。


メディチ銀行はローマやヴェネツィアへ支店網を広げ、
1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり
教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功しました。


これは教会大分裂(シスマ)の続くキリスト教界の対立に介入し、
バルダッサレ・コッサなる醜聞に包まれた人物を支援し、
教皇ヨハネス23世として即位させた賜物でした。


1422年、ローマ教皇マルティヌス5世はモンテ・ヴェルデの伯爵位を授けようとしたが、
ジョヴァンニは政治的な配慮から辞退し、一市民の立場に留まったそうです。







メディチ家とフィレンツェの黄金時代

ジョバンニの息子、コジモは政敵によって一時追放されるが、
1434年フィレンツェに帰還し、政府の実権を握ります。


自らの派閥が常に多数を占めるように公職選挙制度を操作し、
事実上の支配者としてフィレンツェ共和国を統治しました。


家業の銀行業も隆盛を極め、支店網はイタリア各地の他、
ロンドン・ジュネーヴ・アヴィニョン・ブリュージュなどへ拡大。
メディチ家はイタリアだけでなくヨーロッパでも有数の大富豪となりました。


その子であるピエロは、ピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風病みの)と呼ばれ、病弱でした。
父コジモ、息子のロレンツォにはさまれてやや印象が薄いですが、
反メディチ派を抑え込み、メディチ家の黄金時代を維持させる事に成功しました。


一方でパトロンとしては独自の才覚を発揮し、
アルベルティ、ドナテッロ、フィリッポ・リッピ、ベノッツォ・ゴッツォリなどが活躍しました。
ボッティチェリもピエロの代に輩出しています。


コジモの孫のロレンツォは優れた政治・外交能力を持っていました。
イタリア各国の利害を調整する立場として大きな影響力を振るい、信頼を得ていました。


パッツィ家の陰謀への対処に見られるように反対派には容赦無い弾圧を加える一方で、
一般市民には気前良く振舞い、またボッティチェリ、ミケランジェロなどの
芸術家を多数保護するパトロンとしても知られています。


ロレンツォの時代はフォレンツェの最盛期でもあり、
「偉大なるロレンツォ」と呼ばれました。


しかし、銀行経営の内実は巨額の赤字を出しており、
曽祖父ジョバンニと祖父コジモが築き上げたメディチ銀行は破綻寸前の状態でした。
また、共和国の公金にも手を付けていたといわれています。





 フィレンツェ追放と君主化 

ロレンツォが43歳の若さで病死し、息子のピエロが家督を継ぎますが、
1494年、フランス軍の侵攻に対する対処を誤り、市民の怒りを買ってしまいます。


メディチ家はフィレンツェを追放され、メディチ銀行も破綻。
この失態からピエロは、
ピエロ・イル・ファトゥオ(愚昧なピエロ)というあだ名で呼ばれることになりました。


その後ピエロはチェーザレ・ボルジアの軍と共に行動していましたが、1503年に溺死。
このため、ピエロ・ロ・スフォルトゥナート(不運なピエロ)とも呼ばれます。
ピエロの死により、メディチ家の当主は弟のジョヴァンニに継承されました。


1512年、枢機卿ジョヴァンニ(ロレンツォの次男)を筆頭にしたメディチ家は、
ハプスブルク家の援助を得て
スペイン軍とともにフィレンツェに復帰し、その支配を再確立します。


1513年、ジョヴァンニはローマ教皇レオ10世として即位し、
メディチ家はフィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となりました。


レオ10世は芸術を愛好し、ローマを中心にルネサンスの文化の最盛期を築かせましたが、
多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招き、
またサン・ピエトロ大聖堂建設のためとして大掛りな贖宥状(免罪符)の販売を認めたことで、1517年のマルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作りました。


レオ10世は1521年死去しますが、2年後、
従兄弟の枢機卿ジュリオが教皇クレメンス7世として即位します。


クレメンス7世は当時の複雑な政治状況の中、フランスと同盟を結んだことで、
1527年、神聖ローマ皇帝カール5世の報復を受け、ローマ略奪の大惨事を招きます。


同時にメディチ家も再度フィレンツェを追放されますが、
1530年にはクレメンスと皇帝カール5世が和解したため、
メディチ家がフィレンツェに帰還、復権します。


クレメンスの息子(庶子)アレッサンドロが「フィレンツェ公」となり、
メディチ家はついに正式な君主となりました。


  トスカーナ大公国  

フィレンツェ公アレッサンドロが暗殺されて、
コジモ・イル・ヴェッキオ以来の家系が断絶した後には、傍系のコジモ1世が継承。


1569年には「トスカーナ大公」となりました。
コジモは専制君主としてトスカーナ大公国を支配し、
またフィレンツェを豪華な宮殿やモニュメントで飾り立て、
現在見るようなフィレンツェの景観を作り出しました。


コジモ1世の死後は、コジモの子孫が代々トスカーナ大公位を継承しましたが、
大航海時代や宗教改革の影響でイタリア自体の西欧での地位が低下し、
フェルディナンド1世を最後にして
トスカーナ大公国はイタリアの一小国になってしまいました。




 メディチ家の断絶 

1737年、第7代トスカーナ大公ジャン・ガストーネが後継者を残さずに死亡。
トスカーナ大公の地位は、
ロートリンゲン家のフランツ・シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)が継承しました。
こうして、西ヨーロッパにその名を馳せたメディチ家は断絶してしまいました。




しかし、歴代の当主達が集めた美術品などは
ウフィツィ美術館などに残され、
また、ピッティ宮殿などのメディチ家を称える建造物も
多数フィレンツェには残されました。


これらは、メディチ家最後の女性
アンナ・マリア・ルイーザの遺言により、
メディチ家の栄華を現代にまで伝えています。
ウフィツィ美術館






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