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ジャック=ルイ・ダヴィッド
(Jacques-Louis David)
1748年8月30日 -
1825年12月29日
フランス
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| ナポレオンの戴冠式 |
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ジャック=ルイ・ダヴィッド は、フランスの新古典主義を代表する画家です。
18世紀後半から19世紀前半にかけて、フランス史の激動期に活躍しました。
ダヴィッド
(David)
『ナポレオンの戴冠式』
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この作品は1804年ノートルダム寺院での戴冠式を描いたもので、
背景に描かれている人たちの名も歴史に残されています。
ナポレオンからこの世紀の一瞬を正確に写し取るように命令をうけたダヴィッドは、
まず、絵を描く為の広いアトリエを確保し、画材を集めました。
それだけで、一年の月日を費やしたそうです。
そして、ダビッドはより正確に描くために、
式典の後、出席者の衣装を借りてそれらを綿密にスケッチしたとか・・・。
この絵を見て、ナポレオンは
「まるで画面の中に歩いて入れるようだ」と、
その描写力に感嘆の声をあげました。
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ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」の本物は
ルーヴル美術館に所蔵されています。
ダヴィッドの略歴
1748年、パリに商人の子として生まれました。
彼が9歳の時、父親は決闘で亡くなっていますが、
この事件は少年だったダヴィッドに少なからぬ影響を与えたものと推測されます。
ロココ絵画の大家であるフランソワ・ブーシェはダヴィッドの親戚(母親のいとこ)でした。
新古典主義は西洋文化の源流であるギリシャ・ローマへの復帰運動であり、
柔和で享楽的なロココ美術への反動という意味合いも強かっただけに、
ロココ絵画の大家ブーシェがダヴィッドの身内であったということは興味深いです。
当時50歳代だったブーシェは弟子を取っておらず、
彼の紹介でジョゼフ=マリー・ヴィアンという画家にダヴィッドは師事します。
長い修業期間を経て、ダヴィッドは1774年『アンティオコスとストラトニケ』で、
当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を得ました。
これはヴィアンに入門してから約10年後、26歳頃のことで、
当時としては遅いデビューでした。
ローマ賞受賞者は、国費でイタリア留学ができる制度になっており、
ダヴィッドも翌1775年よりイタリアへ留学しました。
同年、師のヴィアンはローマのフランス・アカデミーの院長としてローマへ赴任したため、
師弟揃ってのローマ行きとなりました。
ダヴィッドは1780年までの約5年間、イタリアで古典絵画の研究に没頭します。
こうしたイタリアでの研究を機に、
彼の作風は18世紀のフランス画壇を風靡したロココ色の強いものから
新古典主義的な硬質の画風へと変わっていきました。
ルイ16世注文の『ホラティウス兄弟の誓い』(1784年)は最初の国王注文作であり、
「新古典派宣言」とも見なされる記念碑的作品であります。
これから決死の戦いに望もうとする古代ローマの戦士たちを描いたこの作品は、
ギリシャ・ローマの古典への復帰、という芸術上の主張とともに、
来るべき革命と市民社会を予見した政治的メッセージとも受け取れます。
1789年、フランス革命が勃発するが、このころの彼は、
ジャコバン党員として政治にも関与していました。
バスティーユ牢獄襲撃事件にも加わっており、
1792年には国民議会議員にもなっています。
1793年には
革命家マラーの死を描いた『マラーの死』を制作しています。 |

マラーの死 |
1794年にはロベスピエールに協力し、最高存在の祭典の演出を担当、
一時期国民公会議長もつとめていました。
ロベスピエールの失脚に伴い、ダヴィッドの立場も危うくなり、投獄されたこともあります。
1800年にはナポレオンをも虜にしていたレカミエ夫人に、
愛人への贈り物として肖像画を依頼され、『レカミエ夫人』を制作したが、
本人に気に入られず、未完成に終わってしまったといわれています。
(その後、夫人は彼の弟子のジェラールに肖像画を依頼し、
彼の絵画はドミニク・アングルが現在の形にした)
その後、ナポレオンの庇護を受けて復活し、
1804年にはナポレオンの首席画家に任命されました。
縦6.1メートル、横9.3メートルの大作『ナポレオンの戴冠式』は
1806〜1807年に描かれたものであります。
ナポレオンの失脚後、ダヴィッドはまたも失脚し、
亡命先のブリュッセルで、時代に翻弄された77年の生涯を終えました。

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