カンディンスキー

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カンディンスキー
Kandinsky)


ワシリー・カンディンスキー
(Wassily Kandinsky)

1866年12月4日〜1944年12月13日

ロシア
適度の変動


カンディンスキーは、20世紀を代表する抽象画家の一人です。




カンディンスキー
Kandinsky)
 『適度の変動』

幸福を感じさせる
淡いピンクを背景に
ケトルのような物体が
宙に浮かんでいるようです。


幸福な生活の中にも
適度な変動があった方が
楽しいのでしょうね。




ワシリー・カンディンスキー 「適度の変動」の本物が
どこに所蔵されているのかつかめていません。


もっとも多くのコレクションは、ニューヨークにある
グッゲンハイム美術館に所蔵されています。








モスクワの富裕な家庭で生まれ、法律、経済学、政治学を学びました。


23歳のときに農村で法習慣調査を行ううちに、民族美術に感銘を受け、
モネから受けた啓示もあって、提供された教授職を辞退して
ミュンヘンに出て絵を学ぶことになります。


1900-08年、「ファランクス」や「新芸術家協会」などを設立して、
自然に即した絵画制作に没頭していきます。


やがて主観的傾向を強めはじめ、
画面内の具象的対象に疑問を抱くようになりました。


数年の海外旅行と印象主義・フォービズムを経て1910年、
44歳で自然主義を脱皮、最初の抽象表現主義絵画を発表しました。


「芸術における精神的なもの」(邦題「抽象芸術論」)刊行。

年鑑出版を目的に設立した「青騎士」グループが
開催した展覧会はドイツ表現主義の先駆けとなりました。



ロシア革命時に帰国したカンディンスキーは、
国民文化委員、芸術科学アカデミーの教授、
絵画文化美術館長などの要職につくが、
芸術アカデミー副校長を辞して、
1921年ふたたびワイマールへ渡りました。


バウハウス教授として活動するかたわら、
「象徴」「記号」を画面に用いた叙情的幾何学主義ともいえる作品を制作していきます。


クレー、ファイニンガーらと「四つの青」グループ結成。
「点・線・面」刊行。


バウハウスとともにデッサウ、ベルリンへと移ったが、
1933年バウハウスの閉鎖後、パリ近郊に移住しました。


フランスに帰化し、有機的形態や
象形文字のような形態をもちいた作風を完成。
1944年死去。
1945年の第二次大戦終結後にあらためて彼の業績が絶大な評価を得ました。











〜くろいぬの豆知識〜
『バウハウスについて』


バウハウス(Bauhaus)は、1919年、ドイツヴァイマル(ワイマール)の地に設立された
美術(工芸・写真・デザイン等を含む)と建築に関する総合的な学校です。


また、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともあります。

「バウハウス」はドイツ語で「建築の家」を意味します。


学校として存在したのは、ナチスによって1933年に閉鎖されるまでの14年間のみですが、
バウハウス様式はモダニズム建築に大きな影響を与えました。


バウハウス叢書の刊行も含めて、後世の芸術・思想・教育法等に
与えた影響は、計り知れません。


「ヴァイマルとデッサウのバウハウスとその関連遺産群」は、
1996年に世界遺産(文化遺産)に登録されました。

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