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マネ
(Manet)


エドゥアール・マネ
(Edouard Manet)
1832年1月23日 - 1883年4月30日

フランス

笛を吹く少年


マネは、西洋の近代絵画の歴史の冒頭を飾る画家の一人です。


マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、
後に「印象派」となる画家グループの中心的存在でした。


しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、
最近の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられることが多くなっています。

マネは画家仲間のみならず詩人、作家との交流もあり、
近代詩人の祖であるシャルル・ボードレール、エミール・ゾラ、
そしてステファヌ・マラルメなどと深い親交がありました。


ボードレールはエッチング、ゾラとマラルメは油彩による肖像画がマネによって描かれています。




マネ
(Manet)
 『笛を吹く少年』

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緊張気味にポーズをとり、笛を吹く少年は、
友人であった軍の高官が連れて来た、近衛軍鼓笛隊員ですが、
一説によると顔の部分だけ、マネの息子のレオンであると言われています。


そう言われてみると、大きな瞳を見開いた、あどけなさを残す表情が実に丁寧に、
生き生きと描かれているように思われます。


この作品はジャポニスムの影響を受けているという点でも有名です。
遠近感を廃し、人物の動きを効果的ながら最小限にとどめ、
コントラストの強い色を平面的に用いている様は浮世絵の技法を感じさせます。


マネは、同じテーマを繰り返し描いたりすることはなく、
多岐にわたるジャンルに取り組む画家であったといわれます。
感受性豊かな彼には、世界は描きたいものに満ちあふれていたのかもしれません。


「笛を吹く少年」は、サロン展には落選した絵ですが、
ゾラが熱烈に弁護したのは有名です。



マネの「笛を吹く少年」の本物は、
オルセー美術館に所蔵されています。










マネの生涯


マネは1832年、パリのブルジョワの家庭に生まれました。
父は司法省の高級官僚でした。


はじめ海外航路の船員となるが、1850年、18歳の時に画家になることを決意し、
当時のアカデミスムの大家、トマ・クーチュールに弟子入りします。


1861年、サロン(官展)に『スペインの歌手』が初入選します。
マネの画風はスペイン絵画やヴェネツィア派の影響を受けつつも、
明快な色彩、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な処理などは、
近代絵画の到来を告げるものであります。


代表作の『草上の昼食』と『オランピア』は
いずれも激しいスキャンダルを巻き起こした作品として知られています。

1863年の落選展に出品した『草上の昼食』は、
戸外にいる正装の男性と裸体の女性を描いたことから、
不道徳であるとして物議を醸し出しました。

草上の昼食


オランピア
しかし、さらに大きなスキャンダルとなったのは、
2年後の1865年のサロンに展示された『オランピア』でした。

この作品に描かれた女性は、部屋の雰囲気や道具立てなどから、
明かに当時のフランスの娼婦であることがわかり、それが当時の人々の反感を買いました。


西洋絵画の歴史において裸婦像は数多く描かれてきましたが、
それらはあくまでもただの「裸婦」ではなく、ヴィーナス、ディアナなど
神話の世界の「女神」たちの姿を描いたものでした。


しかし、「草上の昼食」と「オランピア」に登場する裸婦は、
当時のフランス社会に生きる生身の女性を裸体で描いたため、「不道徳」だとされたのです。


しかし、マネの絵画の抱える問題は、そのような社会的なものに留まらず、
むしろ造形的な問題へと発展します。
それまでの西洋絵画の伝統を踏襲しつつそれを解体。


写実主義から受け継いだ思想は、マネを「近代」の画家へと導きました。
研究が高度に進んだ現代においても、最も謎を残す画家の一人です。


なぜ彼がそれまでの伝統を打ち壊し、近代の画家となりえたのか。
あるいは彼が描く絵画そのものに隠された謎のモチーフの数々の意味するところは何か
(『草上の昼食』における蛙や鳥、『オランピア』における黒猫など)。
これらの謎も、マネの大きな魅力の一つでもあります。









〜くろいぬの豆知識〜
『サロンとは?』


フランス王立絵画・彫刻アカデミーは、
1667年にパレ・ロワイヤル(パリ)で作品展を行い、
これが美術展の始まりとされています。


ルーヴル宮サロン・カレ(方形の間)で開催される展覧会(官展)をサロンと呼びました。

フランス革命後、絵画・彫刻アカデミーは廃止されますが、
王政復古のもとで芸術アカデミーに統合されます。
革命後、サロンはアカデミー会員による審査のもと、
アカデミーに属しない一般の画家にも開かれました(公募展の始まり)。


サロンへの出展が決まることが若手美術家の目標でありサロンは登竜門になりました。
アカデミーの審査員は、新古典主義的な美学を持っており、
また旧来の貴族や新興のブルジョワたちの趣味に迎合する傾向があったため、
保守化の傾向にありました。


サロンでは新しい傾向の作品は受け入れられず、
次第に若い作家たちの間に不満が高まっていきました。


これら新しい傾向は、欧州を覆う自由主義を求める政治運動や
科学の急速な発展とも密接につながっていました。

サロンへの反抗〜

第2帝政期、皇帝ナポレオン3世は独自の芸術政策を進めてアカデミーと対立します。


1863年には例年になく厳しい審査に、落選させられた作家たちの不満が高まると、
皇帝は美術愛好者や大衆に判断を任せるため、
落選作品を集めた展覧会を開くことをアカデミーに命じました。


この「落選展」で、マネの「草上の昼食」が
日常生活の裸を描いたことでスキャンダルを起こし話題になりました。


1874年にはのちに印象派と呼ばれるグループが独自の展覧会を開き、
1884年には無審査・出品無制限の「アンデパンダン展」も開かれ、
サロンに対抗する動きが広がっていきました。


これら後に近代美術の祖となった芸術家たちはそれぞれの美学に立って、
アカデミーの美術学校(エコール・デ・ボザール)が教えるような
技巧優先の保守的な美術を「アカデミー的(アカデミック)」と呼んで攻撃しました。


アカデミーに属さずサロンにも出さない美術家が増え、
彼らは独自のグループや結社を組み、個展や独自のグループ展を行うようになりました。


20世紀に入り第一次世界大戦以後、
これら19世紀半ばの近代美術の画家達が評価されるようになると、
逆に彼らを攻撃した芸術アカデミーのアカデミックな作風の大家たちは
忘れられるようになりました。


現在でもサロン(ル・サロン)は毎年行われているが、
近年はこれまで使用していたグラン・パレ
(1900年のパリ万博に際し建てられたガラスと鉄骨の大展覧会場)が
老朽化し修理のため長い閉鎖に入ったため、他の大規模会場でサロンを行っています。


また、第二次世界大戦後は芸術の中心がパリからニューヨークに移動したこともあり、
サロンが芸術界(アート・ワールド)に及ぼす影響も、かつてほど大きくなくなっています。






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