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モネ
(Monet)



日傘をさす女
クロード・モネ
(Claude Monet)
1840年11月14日 - 1926年12月5日


フランス



クロード・モネは印象派を代表するフランスの画家です。
「光の画家」の別称があり、
時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家でした。





モネ
(monet)
「日傘をさす女」
 
モネ「パラソルをさす女」【名画ドットネット】モネ「パラソルをさす女」
75,600円

モネ「パラソルをさす女 」 ヘリオトワル M20号A
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最愛の妻カミーユをモデルとした「散歩、日傘をさす女」の習作として描かれた
こちらの「日傘をさす女」の絵。


顔の表情を描かないことで風景と人物が一体となった光の世界を
表現することにモネは成功はしました。
また、わざとモネはカミーユとの思い出ゆえに
顔の表情を描かなかったとも言われています。


いずれにせよ、モネの亡き妻への愛が深く感じられる一枚です。



モネの「日傘をさす女(戸外の人物習作)」の本物は
オルセー美術館に所蔵されています。






日傘をさす女 


「光の画家」として名高いクロード・モネ。
しかし、そのモネが世間に認められまでには、大変な苦労がありました。


それを支えたのが、最愛の妻カミーユでした。


描いても描いても酷評されるモネを、若いときから支えていたカミーユ。
しかし、モネの両親は二人の同棲に反対し、仕送りをとめてしまいました。


援助を失った二人の暮らしは困窮を極めます。
やがて、カミーユは長男を出産し、生活はさらに苦しくなっていきます。


1871年、ついにモネ一家は、パリから郊外の町アルジャントゥイユに移り住みます。
豊かな自然と穏やかな光に包まれたその地で、
モネは制作に没頭しました。


彼にとって重要だったのは、自然の光のなかで
その瞬間の美しさをとらえて描くことでした。


そのためのモネは、一日のうちの何時の日差しが理想的な光なのか、
太陽の傾きまでも特定するほどに光を突き詰め
光そのものに意味をもたせようとしました。



散歩 日傘をさす女
そして、かねてから描きたかったテーマに挑みます。
「散歩、日傘をさす女」で、青空と真っ白なドレスに包まれたカミーユは、
まるで光そのものになったかのようです。


まさに幸せの絶頂の中で生まれた作品であります。




しかし、その幸せは長く続きませんでした。
貧しさゆえの不幸がカミーユを襲いました。


生活苦から、三人目の子供を堕胎した彼女の体は
日に日に衰弱していき、
とうとうある朝、モネの目の前でカミーユは静かに息を引き取ったのです。


悲しみの淵に沈みながらも、
モネは無意識のうちに絵筆を握り締めていました。


モネの画家としての目は、
なんとカミーユの死に顔にあらわれた
微妙な色の変化を追っていたのです。


そうして生まれた作品が「死の床のカミーユ」です。

死の床のカミーユ

カミーユの死をきっかけに、モネの絵からは人の姿が消えました。


彼女のいない孤独のなかで光を追い続けたモネは、
やがて一瞬一瞬変っていく光の美しさを「連作」という独自の手法で表現しました。
そして、画壇からの大絶賛を受けます。


モネとカミーユが二人三脚で追い求めた光が、
ようやくモネ自身を照らし始めたのです。





カミーユの死から8年。
モネは決して描こうとしなかった人物画を、再び手がけることになります。


今回、こちらでご紹介させて頂く「日傘をさす女」(オルセー美術館所蔵)は、
かつて描いた「散歩、日傘をさす女」(ワシントン ナショナルギャラリー)と
同じ構図であります。


しかし、この二つの絵には、決定的な違いがあります。
顔の表情です。
散歩、日傘をさす女 日傘をさす女
(戸外の人物習作)



モネは別の女性モデルを使ってカミーユとの思い出を再現しようとしましたが、
顔だけはカミーユへの思いゆえ描けなかったのではないかと言われています。


また、モネはこの絵で、風景画のような人物画を究めようとしました。
顔の表情を描かないことで風景と人物が一体となった光の世界を表現したのです。



いずれにせよ、この絵を最後に、モネは人物画を封印します。
亡き妻への愛はそれほどまでに深いものだったのでしょう。













生涯

クロード・モネは、1840年パリに生まれました。
5歳の時、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住。


モネは少年の頃から絵画に巧みで、
十代後半の頃には自分の描いた人の由来となったことはよく知られています。


なお、一般にはパリのマルモッタン美術館所蔵の
『印象、日の出』が、
この時の出品作だとされているが、
(この作品が「印象派」という名称の由来となります)
これには異説もあります。

印象、日の出



すなわち、マルモッタンの絵は実は「日没」を描いたもので、
第1回印象派展に出品された『印象、日の出』は別の作品だとする見方です。


物の戯画などを地元の文具店の店先に置いてもらっていました。
そうした戯画が、ル・アーヴルで活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、
彼らは知り合うことになります。


ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出し、
陽光の下で海や空の風景を描いていた画家でした。
ブーダンと出会ったことが、後の「光の画家」モネの生涯の方向を決定づけたと言われています。



モネは1860年(1859年とも)、パリに出て、アカデミー・シュイスに学び、
ここでピサロらと知り合います。


2年間の兵役を経て1862年、グレールのアトリエに入り、ここではシスレー
バジール、ルノワールらと知り合っています。


1870年、普仏戦争を避けてロンドンへ赴きますが、
ここではイギリス風景画の第一人者ターナーを研究しました。

1876年の第2回印象派展には
日本の衣装を着けた妻カミーユをモデルにした
『ラ・ジャポネーズ』を出品しています。


これは、風景画家モネによる人物画の大作として注目されます。
なお、カミーユは1879年、32歳の若さで死去しています。

ラ・ジャポネーズ



モネはセーヌ河流域のアルジャントゥイユ、ヴェトゥーユなどで制作した後、
1890年、パリの西約80kmの郊外にあるジヴェルニーに土地を購入します。

以後、没するまでこの地で制作を続けました。
モネはジヴェルニーに
睡蓮の池を中心とした「水の庭」、
さまざまな色彩の花を植えた「花の庭」を造りました。


パリ郊外の観光名所として
多くの人が訪れるこの庭自体が、
自分の「最高傑作」だと
画家自身が言っていたといわれています。

モネは印象派グループの画家のなかではもっとも長生きし、
20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめ多数の作品を残しています。


ルノワールセザンヌ、ゴーギャンらはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進み、
マネドガらはもともと印象派とは気質の違う画家でしたが、
モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な印象派の画家でした。







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