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グイド・レーニ
(Guido Reni)
(1575年11月4日〜1642年8月18日)
イタリア |
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ベアトリーチェ・チェンチの
肖像 |
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レーニは1575年、イタリア北部のボローニャに生まれました。
修業期にはフランドル出身の画家デニス・カルファートに師事します。
この師のもとで数年間修業した後、1594年、
地元ボローニャの画家一族であるカラッチ家が主宰する
画学校(アカデミア・デリ・インカミナーティ)に入門し、
ルドヴィコ・カラッチに師事しました。
レーニは20歳代半ばの1601−1602年頃、
ローマへ出て本格的な画業を始めます。
1604年頃まではアンニーバレ・カラッチの工房の一員として
カラッチの代表作であるファルネーゼ宮殿天井画制作に参加しました。
ローマには十数年間滞在し、教皇パウルス5世や
その甥にあたる枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼの注文を受け活動。
ローマのクイリナーレの丘に建つ
パラヴィチーニ=ロスピリオージ宮殿の天井画
『アウローラ』(1612−1614年)はレーニの代表作です。
レーニは『アウローラ』を完成した1614年、
生地ボローニャへ戻りました。
教皇や貴族らの注文を受ける華やかな生活よりも、
故郷での自由な生活を望んだためと言われています。
以後、没年までは短期間の旅行を除いてボローニャを離れず、
制作と後進の指導に努めました。
優美な女性像を多く描いたレーニは、
実生活では女嫌いだったと言われ、生涯独身を通したそうです。
グイド レーニ
(Guido Reni)
『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』
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17世紀初頭に制作されたこの作品は、
極めて少ない色数で描かれています。
暗闇の中に少女が一人、別れを告げるかのように振り返っています。
白装束を身にまとい、頭にはターバンを巻き、光を浴びて輝く少女。
やせ細った面差しに、唇だけがうっすらと赤みを帯びています。
そして、憂いをたたえた瞳には、一点の光。
まるで遺影のようなこの肖像画は、22歳でこの世を去った
実在の少女の面影を描いたものです。
少女の名はベアトリーチェ・チェンチ。
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グイド レーニ「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」の本物は
ローマ市街にあるバルベリーニ宮殿(かつての名門貴族の館)内にある
国立古典絵画館に所蔵されています。
イタリアに行かれた際には、ぜひ足をお運びくださいませ。
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〜くろいぬの豆知識〜
その@
『ベアトリーチェ・チェンチって誰?』
1577年、ベアトリーチェはローマ貴族の中でも名家として知られる
チェンチ一族の娘として生まれました。
一族の長、フランチェスコ・チェンチは若い女と見れば
見境なく陵辱するというほど女癖の悪い男でした。
極悪非道の限りを尽くしてローマにいられなくなり、
山奥の村ペトレッラの城へ避難しました。
フランチェスコは絶世の美女に成長したベアトリーチェを
他の男が寄りつかないように城内に監禁し、
時折現れては彼女を奴隷のように酷使しました。
美しい娘の精神と肉体を痛めつけることに
快楽を覚えたフランチェスコは、彼女が20歳になった時、
快楽のはけ口を娘の体に求めたのです。
父親の絶望的な欲望から逃れるため、
ベアトリーチェは父親の殺害を決意します。
手を貸したのは彼女に同情した継母や家来たち。
殺害後、司直の手に落ちたベアトリーチェは激しい拷問に
耐え切れず、ついに罪を自白します。
家長殺害は極刑に値する重罪でした。
ベアトリーチェは断頭の刑に処せられるため、
髪をまとめて頭にターバンを巻かれました。
『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』は、処刑の直前、
牢屋の中にいたベアトリーチェを、チェンチ家とゆかりのあった
枢機卿がグイド・レーニに命じて描かせたと言われています。
ローマ市民はベアトリーチェに深く同情し、
死刑に反対しました。
しかし、その前に立ちはだかったのはバチカンでした。
時の教皇クレメンス8世は、チェンチ家の領地と財産の没収を企み、
一族全員の死刑を言い渡した。
1599年9月11日、サンタンジェロ橋の広場で、
ベアトリーチェと一族の処刑は執行されました。
ベアトリーチェが処刑された広場に集まっていた
ローマ市民は怒りと興奮で騒ぎ出し、
多数の死者と負傷者を出したといわれています。
グイド・レーニは群衆を描くことに長けていました。
しかし彼は、処刑の場面も、怒るローマ市民も、
残酷な刑を執行する男たちも描かなかったのです。
画家の筆は最後の生の瞬間を、永遠に変えたのです。 |
ベアトリーチェ・チェンチの悲劇は、時代を象徴するヒロインとして
多くの画家たちによって描かれました。
しかし、グイド・レーニの作品を越えるものは
生まれませんでした。
レーニはほとんど茶と白と黒しか使わず、
その単純な色彩を駆使して悲劇の物語を映し出しました。
この世に別れを告げる悲しみ、
儚さ、そして命の美しさ。
死の姿ではなく、生の姿を。
それが「孤独な隠者」と呼ばれた画家の美意識だったのです。 |
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〜くろいぬの豆知識〜
そのA
フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』
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グイド・レーニの描いたこの肖像画に
よく似た絵があります。
1665年頃に描かれたフェルメールの
『真珠の耳飾りの少女』は、同じターバンに、
同じポーズをしています。
フェルメールはグイド・レーニを
知っていたのでしょうか。 |
時代を象徴する1枚の絵、フェルメールの『青衣の女』。
窓辺で手紙を読む女性の後ろの壁には
ヨーロッパの地図が描かれています。
16世紀から17世紀にかけてヨーロッパでは郵便網が発達していました。
市民は遠く離れた土地の情報を手紙によって
容易に手に入れることができ、
また銅版画によって異国の作品を目にすることが
できるようになった時代でした。
ベアトリーチェの悲劇は事件とともにヨーロッパ中に広まりました。
ましてフェルメールはイタリア絵画を勉強中。
これまでこの絵は想像で描かれたと言われてきました。
ただ、オランダの風俗にはなかったターバンを、
なぜ少女が頭に巻いていたのかが謎となっていました。
もし、フェルメールがグイド・レーニの絵を知っていたとしたら…。
『真珠の耳飾りの少女』は、「北方のモナリザ」とも呼ばれてきましたが、
本当は「北方のベアトリーチェ」だったのかもしれませんね。 |
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