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フェルディナン・ヴィクトール・
ウジェーヌ・ドラクロワ
(Ferdinand Victor Eugène Delacroix)
1798年4月26日~1863年8月13日
フランス
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| 民衆を導く自由の女神 |
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ウジェーヌ・ドラクロワは、フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家です。
また、ドラクロワは「美の破壊者」とも呼ばれました。
劇的な画面構成と華麗な色彩表現は、
ゴッホをはじめとして多くの画家たちに多大な影響を与えました。
ドラクロワ
(Delacroix)
『キオス島の虐殺』
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1824年のサロン展に出品、ロマン主義絵画の出発点となります。
ギリシャ独立戦争でトルコ人に抵抗した何千というギリシャ人が
キオス島で虐殺された事への抗議です。
描かれた人々の顔つきと身体からは、貧窮、恐怖、疲労が読み取れます。
敗北者たちの衰弱した裸の体つきが戦争の残酷さを物語っています。
上方に描かれた遠景では、暗い部分と明るい部分が交互に入れ替わり、
激しい戦闘の後の惨憺たる風景を作り上げています。
また曖昧なタッチがこの悲痛な印象をかもし出しています。
1824年のサロンには『キオス島の虐殺』を出品しますが、
サロンで賛否両論を巻き起こしました。
先輩画家のグロはこの作品を
「これは(キオス島の虐殺ではなく)絵画の虐殺である」とまで酷評したが、
結局、作品は政府買上げとなりました。
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ドラクロワの「シオの虐殺」の本物は、
ルーヴル美術館に所蔵されています。
ドラクロワ
(Delacroix)
『民衆を導く自由の女神』
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32歳の時、ドラクロワは歴史的大事件 「七月革命」に遭遇します。
民衆の力を目の当たりにし、革命に共鳴したドラクロワは、
自由を勝ち取ったその戦いを「民衆を導く自由の女神」に描き出しました。
ベレー帽や幅広ズボンが描かれていますが、
それらから、人物の職業や身分を特定できます。
ドラクロワは様々な衣服を描くことで、この革命に、
ありとあらゆる階層や職業の人々が参加したことを強調しました。
女神の帽子は古代ギリシャの解放された奴隷が
かぶっていた帽子で自由の象徴でした。
この帽子を女神にかぶせることで、ドラクロワは「市民の自由」を表現しました。
また、市民の衣服や空の色など、
随所に女神のもつ三色旗の色が使われています。
「自由、平等、博愛」を示すこの色を、
ドラクロワは意図的に使って描いたと考えられています。
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ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」の本物は、
ルーヴル美術館に所蔵されています。
ドラクロワ
(Delacroix)
『サルダナパルの死』
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バイロンの詩から想を得て、
バビロニア王サルダナパルが
民衆に包囲され宮廷の美女を
殺させ宮殿に火を放って滅亡した
歴史的な場面を表わしています。 |
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ドラクロワの「サルダナパルの死」の本物は、
ルーヴル美術館に所蔵されています。
ドラクロワ
(Delacroix)
『ショパンの肖像』
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友人ジョルジュ・サンドの恋人ショパンは、
音楽の才能にも恵まれていたドラクロワにとって
大切な友人になるのはごく当然のことでした。
ドラクロアと親子ほども歳の離れた若きショパンの、
その音楽と同じく、繊細で感受性の強い風貌を見事に描き出したこの作品は、
肖像画の傑作として高く評価されています。
この絵の制作は1838年。ドラクロアが40才、ショパンが28才の時でした。
ドラクロアは1863年に亡くなるまで、
この絵を未公表のままずっと手元に置き続けたと云います。
描かれた当初この絵は
「右側でピアノを弾くショパンと左側で演奏に聴き入るサンド」という構図でした。
しかし現在は二枚に切り裂かれ、ショパンの部分はルーブル美術館に、
サンドの部分はコペンハーゲンの美術館に、それぞれ別々に所蔵されています。
ルーヴル美術館には、
この肖像画の構想と思われる鉛筆スケッチが所蔵されていますが、
そこにはショパンがピアノを弾きサンドが
それに聴き入っている姿が描かれています。
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ドラクロワの「ショパンの肖像」の本物は、
ルーヴル美術館に所蔵されています。
生涯 
1798年、パリ近郊のシャラントンに生まれました。
父は一応、外交官シャルル・ドラクロワだが、
実の父親はナポレオン帝政下などで外務大臣を務め、
ウィーン会議のフランス代表として知られる
シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールだと言われています。
苗字を分解するとde la croixで、「信仰(信条)に生きる者」を意味します。
新古典派の画家ゲランに入門し、1822年、『ダンテの小舟』でサロンにデビューしました。
1824年のサロンには『キオス島の虐殺』を出品します。
この作品は当時(1822年)実際に起きた事件を題材にしたもので、
サロンでも賛否両論を巻き起こしました。
先輩画家のグロはこの作品を「これは(キオス島の虐殺ではなく)絵画の虐殺である」
とまで酷評したが、結局、作品は政府買上げとなりました。
1830年の七月革命に際しては、有名な『民衆を導く自由の女神』を制作しています。
こちらも翌年、サロンに発表後、新政府によって買い上げられました。
1832年、フランス政府の外交使節に随行する
記録画家としてモロッコを訪問しました。
1834年の『アルジェの女たち』は、
モロッコ旅行の際のデッサンをもとに制作したものです。 |
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アルジェの女たち |
1830年代以降は、リュクサンブール宮、パリ市庁舎など、
政府関係の大建築の装飾を数多く手掛け、1863年に死去するまで旺盛に制作を続けました。


~くろいぬの豆知識~①
『民衆を導く自由の女神がルーヴル美術館に展示されるまで』
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ドラクロワは、試行錯誤の結果、完成した「民衆を導く自由の女神」は、
革命の翌年にサロンで発表されました。
ところが、この絵はいままでの作品以上に非難を受けます。
「生々しく汚らしい」「この女神は美しさに欠ける」「はだけた胸が火薬で汚れている」・・・。
当時の美術界では、アングルらの上品な女性像がもてはやされていた為、
今でこそ傑作と名高い「民衆を導く自由の女神」は汚い絵だと受け止められました。
しかし、議論を巻き起こしたこの作品を、なんと新政府が買い上げることになりました。
それには、新政府のもくろみがありました。
七月革命でシャルル10世を追放したのちに誕生した新政府は、
自由主義者として知られたルイ・フィリップを新しい国王に迎えました。
新政府は、王宮にこの絵を飾って新国王に見せ、
即位までのいきさつを忘れないようにと戒める目的で買い上げたのです。
しかし、ルイ・フィリップは、やがてこれまでの国王と同様、
民衆を弾圧するようになります。
そして、革命の熱が冷めると、国王は絵を宮殿に飾ることをやめ、
倉庫にしまいこんでしまいます。
「民衆を導く自由の女神」が倉庫から出され、
ルーヴル美術館に展示されるようになったのは、
フランスに民主政治が確立された1874年のことでした。
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~くろいぬの豆知識~②
『恋人同士の肖像が二枚に切り避けられた訳とは? 』
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描かれた当初この絵は
「右側でピアノを弾くショパンと左側で演奏に聴き入るサンド」という構図でした。
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しかし現在は二枚に切り裂かれ、
ショパンの部分はルーヴル美術館に、
サンドの部分はコペンハーゲンの美術館に、
それぞれ別々に所蔵されています。 |
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| ジョルジュ・サンドの肖像 |
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ショパンの肖像 |
才能あふれる恋人同士の肖像がなぜ二枚に切り裂けられたのでしょうか?
| ①遺産分割争い説 |
この絵は、ドラクロアの死後、
彼の友人のコンスタン・デュティーユの手に渡りました。
そしてデュティーユの死後は彼の相続人達によって
競売にかけられます。
その時の競売のカタログには「ショパンの肖像」と記されており、
この時にはすでに分割されていたという事になります。
つまり、デュティーユの死後、相続人達の間で遺産分割の争いが起き、
この絵はその過程で二枚に切られたのではないか?という説です。
確かに、2枚にして売った方が、お金になりますよね。
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②サンドの息子
モーリス説
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もうひとつは、ショパンを嫌っていたサンドの息子、モーリスが
母親に迫って、デュティーユ家に絵を切断するよう、
仕向けたのではないか? という説です。
サンドがショパンと知り合った時、彼女には息子と、
娘がひとりずつ居ました。
ショパンはこの娘とはうまくいったようですが、
息子のモーリスは、母親の愛人ショパンのことは
徹底して嫌っていたようです。
モーリスは母親の死後、サンドの書簡集を出版するにあたり、
ショパンへの愛情に満ちた表現をかなり削除したそうです。
不愉快な男が母と一緒に描かれていたのが許せない。
そう思ったのかもしれません・・・。
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いずれにせよこの傑作がたどった運命は、
まるでショパンとサンドの悲しい破局を象徴しているかのようで、物語の広がる一枚ですね。
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