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糸杉と星の道


ゴッホ
Gogh


フィンセント・ファン・ゴッホ
(Vincent van Gogh )
1853年3月30日〜1890年7月29日
オランダ
糸杉と星の道



強烈な色彩と激情的な筆致で、それまでの表現の流れを変え、
フォーヴィズム(野獣派)に影響を与えた、後期印象派の画家ゴッホ。


今でこそ世界がこぞって彼の絵を高額で手に入れようとしますが、
しかし、彼が生前に売った絵はたった1枚のみであり、
貧困、精神的な病気の苦痛等に苛まれる人生を送りました。


彼の画家としての出発は遅く、37歳で悲劇的な死を選ぶまでの、
わずか10年の間に2000点を超える作品を残しています。


1888年2月、ゴッホは明るい太陽と鮮やかな色彩を求めて
フランスのアルルへとやってきます。



彼はここである夢を抱いていました。
それは画家たちが絵画について語り合い、
助け合って生活することのできる共同体を作ることでした。


アルルに「黄色い家」を借り、そこに ゴーギャンを招きました。


ゴッホとゴーギャンは激論の末、
わずか2ヶ月で共同生活の終焉を迎えます。


ゴッホは自分の耳を切り落としてしまいます。



こちらでご紹介させて頂きます「糸杉と星の道」は、
書籍によっては、ゴッホ最期の地・オーヴェールで描かれたものだとしているものもあるようですが、
実はオーヴェールに移る前の、サン・レミの病院に居た頃に描かれたもので、
オーヴェールに移る直前に描かれた、サン・レミでの最後の作品だと思われます。



サン・レミは、アルルでの耳切り事件の後、
住民の署名運動などで強制的に収容された精神病院を退院した後に、
ゴッホ自らの意思で療養することにした、精神病の看護病院のあったところです。




ゴッホは精神的な病気に冒されて、ついには自殺してしまいます。
てんかん、アルコール依存症、統合失調症などの複合と推測されますが、
それらが明らかな形で顕在化したのは、
おそらく、アルルでのゴーギャンとの関係で起こしてしまった、
耳切り事件が初めてだったのでしょう。



ちょうどこの頃に、長い間ゴッホを経済的に支え続けてきた弟のテオが結婚し、
その支援が途絶える不安も、頂点に達していたのかも知れません。



サン・レミの看護病院では、彼の症状は比較的軽かったので、
絵を描くことも許されていましたし、
入院してから比較的早い時期に、外出して外の景色を描くことも許されるようになります。


その時期に何点ものオリーブや糸杉をモチーフにした名作を描き上げることになります。


特に 「 糸杉 」 は、南仏ではよく墓地に植えられているもので、後年、
ゴッホの死を予感させるものとして語られることが多くなりますが、ゴッホとしても、
あるいは自分の自殺願望との闘いの意味をこめていたのかも知れません。



あの名作、星月夜 も、この、サン・レミに入院して間もないころに描かれています。



星月夜 に、天空で二つの渦が絡み合い、互いに闘っているような寓意が感じられるのも、
自殺願望と闘っている自分の心を描いていたのかも知れません。


しかしそんな、絵を描ける時期は長くは続かず、
1889年秋、彼は酷い発作に見舞われることになるのです。
「 発作以来、外の広い所では恐ろしい孤独を感じるので、あえて外には出ないでいる・・・ 」
酷い対人恐怖と鬱、幻覚と幻聴にゴッホは打ちのめされ、
6週間、一歩も自分の部屋から外には出なかったと伝えられています。



ほとんど絵を描くことも出来ず、部屋でじっと、そして悶々としている日々・・・
しかしやはり、彼の闘うすべは、絵を描くことしかありませんでした。


少し調子が良くなると、部屋からは出られませんでしたが、以前自分が描いた絵や、
敬愛するドラクロアやミレーの白黒エッチングを模写するなど、
彼は彼の絵に闘いの場を求め、それによって自分を鼓舞しようとしたように見受けられます。




ゴッホの振幅の激しい心が落ち着きを取り戻すのは、翌年の春になってからです。
ひょっとして、テオに子どもが生まれ、その子に自分のフィンセントという名前を付けてくれたことから、
テオとその妻・ヨハンナの、自分に対する気持ちを再確認できたからかも知れません。


結婚したテオから見放される恐怖に苛まれていたのも、
彼の発作の、ひとつの要因だったのでしょう。



人付き合いが下手で、さまざまな失敗を繰り返したゴッホ。
しかし彼は、決して人間嫌いではなかったし、最も孤独を恐れる淋しがりやだったのでしょう。
人を愛し、人の役に立ちたいと念じ、人との関わりの中で生きたいと思い続けたゴッホの、
これはその再出発を決意した、象徴的な絵だったのかも知れませんね。



「糸杉と星の道」は、よく見ると、農作業を終えて家路に着く農夫や二人乗りの馬車や
遠景の家やその灯りなど、日常生活をおくる人間たちも、
川の流れのような道路上にごく淡々と描かれています。


ゴッホ
(Gogh)
 『糸杉と星の道』

まっすぐに空に向かって
暗い炎のように
伸びる糸杉の向こうには、
渦を巻いた空が
不安に広がっています。



のぼったばかりの
オレンジ色の細い月や、
太陽のように
巨大な輝きを持った星・・・。


その中から、
雷鳴ともうなり声ともつかない、
うねりのような音が聞こえてきて、
ゴッホの底知れない
死への不安と孤独が
胸に迫ってきます


ゴッホの「糸杉と星の道」の本物は、
オランダのクレラー・ミューラー美術館に所蔵されています。













〜くろいぬの豆知識〜
『ゴッホと弟テオについて』


ゴッホは生涯で一枚しか絵が売れませんでした。
それでも自分の絵が至上のものと信じていたと思います。
しかし、自分だけではその才能もしぼんでしまいます。


世の中に一人でもいい、自分を認めてくれる人がいる、とゴッホは信じたからこそ、
ゴッホは、自分の絵を他人がなんと言おうと描き続けられたのだと思います。


それが、ゴッホの弟テオドルス(通称テオ)の存在でした。




当時、ヨーロッパでも有数の画廊で働いていたテオは、
当時、800フラン 日本円にして80〜120万円の
高給取りであったとされています。 


ゴッホに150フラン15〜20万円 送る約束でしたが、
本当は300フランぐらい仕送りをしていたそうです。

 
金銭面だけではなく、画廊で働いていたという仕事柄、
ゴッホにパリの最新の芸術を教えました。


テオが働いている画廊の中でゴッホが最も心奪われたのは、印象派の絵画でした。


ゴッホは、故郷オランダにいたころに描いていた暗い色調のスタイルが、
時代遅れであること悟り、若い印派の画家達が通う画塾に通います。


そこでの交流を通じて、ゴッホは画風を変化させて行きました。





経済面でも芸術面においてもテオは
ゴッホに影響を与え、サポートしていきます。


そして、テオは、兄の能力、非凡さを心の底から崇拝し、
世に出ることを真摯に願っていました。



そのテオの思いがゴッホにも通じたからこそ
絵を描くことができたのでしょう。




テオに子供ができ、家庭もできて仕送りに関しての愚痴を聞いたこと、
ガシュエ博士の娘さんに近づかないように博士に言われたこと、
などがゴッホは、「自分がこの世にいなければ良いのに・・・」
という気持ちにさせたのではということを読んだことがあります。






ゴッホの激しいけれど純粋な性格、
純粋ゆえに激しいのか・・・・。



短い画家生活
弟テオによって充実することができたのですが、
弟テオの重荷になりたくなかった為に(理由は他にも説がありますが)、
自殺をはかったゴッホ。


絵さえ売れていれば、違った人生もあったと思われます。
 あれだけの絵が当時評価されなかったのは不思議です。


時代よりもゴッホが先に進んでいたのかも知れませんね。



ゴッホの死後、約半年後弟テオも
精神に錯乱をきたし、亡くなります。



ゴッホと弟テオの墓石が
まるで一つのお墓のように並んでいます。



パリ市内から北に約25Km、
オーヴェール・シュル・オワーズ
オーヴェール教会の裏手に二人のお墓があります。

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