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オーヴェールで描かれた作品 |
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フィンセント・ファン・ゴッホ
(Vincent van Gogh )
1853年3月30日〜1890年7月29日
オランダ |
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| オーヴェールの教会 |
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強烈な色彩と激情的な筆致で、それまでの表現の流れを変え、
フォーヴィズム(野獣派)に影響を与えた、後期印象派の画家ゴッホ。
今でこそ世界がこぞって彼の絵を高額で手に入れようとしますが、
しかし、彼が生前に売った絵はたった1枚のみであり、
貧困、精神的な病気の苦痛等に苛まれる人生を送りました。
彼の画家としての出発は遅く、37歳で悲劇的な死を選ぶまでの、
わずか10年の間に2000点を超える作品を残しています。
ゴッホ
(Gogh)
『オーヴェールの家々』
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「モダンな別荘や
中産階級の田舎の家も
崩れかけた古い藁ぶき小屋と
同じほど素敵だ」
この絵のことをゴッホは、
弟テオに手紙でこう書いていました。
ゴッホはこの頃パリ郊外の地に
弟達も来られる新しい家を
借りることも考えていました。
手紙の文面は前向きですが、
この一ヶ月後に自ら死を選ぶ
ゴッホのことを思うと、
この絵からは、孤高の悲しみさえ
感じられてしまいます。 |
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ゴッホの「オーヴェールの家々」の本物は、
スペイン トレド美術館に所蔵されています。
ゴッホ
(Gogh)
『オーヴェールの庭』
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ガシェ医師を頼って、オーヴェールに
やってきた頃のゴッホは、
比較的精神状態も落ち着いていた
と言われています。
弟テオに
オーヴェールの美しさや
制作意欲が戻ってきたことを手紙で
伝えています。
が、この数十日後に
ピストル自殺をしてしまうゴッホは、
どんな思いでこの絵を
描いたのでしょうか。
この絵を描いていた時だけでも、
満たされた気持ちだったことを
祈らずにいられません。 |
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ゴッホの「オーヴェールの庭」は、
個人所蔵です。
ゴッホ
(Gogh)
『オーヴェールの教会』
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牧師であった父の姿に憧れ、
自分もそうなりたいと思いますが、
残念ながら叶わなかったゴッホ。
オランダ時代に数十枚教会の絵を
描き残したゴッホですが、
父親が急死すると、彼のモチーフから
教会はプッツリと消えます。
そして、次に教会を描いたのは、
ここオーヴェールでした。
父の象徴である教会。
ウルトラマリンの沸き立つような
空の下に描かれた、教会。
激しい筆触は画家の心象風景を
表しているようです。 |
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ゴッホの「オーヴェールの教会」の本物は、
オルセー美術館に所蔵されています。
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画廊に勤務した後、牧師を目指して各地を転々とするゴッホでしたが、
2度の大きな失恋を経験し、やがて本格的に絵を描くことを考えるようになります。
この時すでにゴッホは27歳になっていました。
この頃の代表作「ジャガイモを食べる人々」(1885年)は
後世のゴッホの作品とは全く異なる色彩で描かれています。 |
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その後ゴッホはパリに渡り、1886年3月1日頃、
ゴッホはラヴァル街のテオの住居に転がり込みます。
当時テオは、ヨーロッパでも有数の画廊、
グーピル商会のモンマルトル通りの支店の支配人をしていました。
そこでゴッホは弟テオから、金銭面だけでなく芸術面でも影響を受けます。
画廊で働いていたという弟の仕事柄、ゴッホは、テオの職場でパリの最新の芸術を学ぶのです。
テオが働いている画廊の中でゴッホが最も心奪われたのは、印象派の絵画でした。
印象派の技法に触れ、また日本の浮世絵の特徴でもある
明快な色使い・影の無い世界にも大きな影響を受けることになります。
日本の浮世絵に魅了されたゴッホは、影のない浮世絵を見て、
日本は明るい太陽の光に満ちた国だと思います。
そして、1888年2月、ゴッホは明るい太陽と鮮やかな色彩を求めて
パリを離れ、アルルへと向かいます。
彼はここである夢を抱いていました。
それは画家たちが絵画について語り合い、
助け合って生活することのできる共同体を作ることでした。
アルルに「黄色い家」を借り、そこをアトリエ兼住居にします。
同年10月、ゴーギャンがアルルにやってきます。
その ゴーギャンを迎え入れる部屋に飾ろうと考えて、
描かれたのがゴッホの代表作「ひまわり」の絵でした。
ゴーギャンにアルルで得たものを全て見せたい。
そんな思いでゴッホはゴーギャンを待つ間、絵画制作に挑みました。
しかし、楽しいはずのゴーギャンとの共同生活はたったの2ヶ月で、
ゴッホが自らの耳を切り落とすという衝撃的な事件の後、終止符を打ちました。
それをきっかけに、ゴッホは、1889年5月サンレミの精神療養院に入ることになり、
約1年間そこで過ごしました。
サンレミでは、病室の他、制作室も与えられていました。
激しい発作を繰り返す内に、彼は療養院の環境がかえって
自分の精神状態にとって良くないと判断し、転地を希望するようになります。
そして、1890年5月、パリ郊外オーヴェール・シュル・オワーズへと向かいます。
そこには、カミーユ・ピサロに進められた精神科の医師ポール・ガシェがいました。
ゴッホは、オーヴェールにやってきて、自殺するまでの70日間の間に、
油絵だけでも70点もの作品を描きあげました。
およそ一日に一作品となる驚異的なスピードです。
それはまるでこれから消え行く蝋燭の炎が、一瞬鮮やかに燃え立つかのようです。
7月29日ピストル自殺をはかり、
お世話になったガッシュ医師やテオに看取られて世を去ります。


〜くろいぬの豆知識〜
『ポール・ガシェについて』
ゴッホがサンレミの病院から、オーヴェールに移り住む
きっかけとなったのが、精神科医 ポール・ガシェの存在です。
1890年5月、オーヴェールに着いたゴッホは
ガシェとその一家と親しくなり、
週末には食事を共にすることもありました。
再び創作意欲がよみがえってきて、
村の風景や村人たちを描き、
ガシェ自身もモデルとなりました。
(この絵は、ニューヨークのクリスティーズで
日本人によって競り落とされたことでも有名ですね) |
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医師ガシェの肖像 |
ガシェは絵画愛好家であり、ルノワール、ポール・セザンヌや
カミーユ・ピサロらの友人であり、後継者でもありました。
ガシュ医師の優れたコレクションはその子息の希望により、
全てまとめて飾られることになり、オルセー美術館ではそのように展示されています。
ポール・ガシェは、自らも絵画を描いていました。
ガシェの筆による「死の床のファン・ゴッホ」
(オルセー美術館蔵)という作品が残されています。
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